「牧師、閉鎖病棟に入る」を読んで、大きなパンチをくらってしまった。
本では、メンタルが限界になり仕事で大もめごとをおこした著者が、閉鎖病棟に入院してから、退院、社会復帰するまでのできごとが綴られている。
閉鎖病棟での生活、そこで出会った境界知能の子どもたち、その子どもたちを看ている看護師や医師、著者自身の過去と自閉症スペクトラムの治療、著者を見てくれた医師、著者の妻や父母、社会復帰の困難さ……。
入院から社会復帰するまでの過程そして著者の過去すべてが詳細かつ赤裸々に描かれていた。
特に、自閉症スペクトラムを加療するシーンは強烈だった。
著者は「ありのままの自分が正しい」と思うあまり、取り繕った面談をしていたのだけど、それを医師に見抜かれることになる。
取り繕いを見抜かれたことで著者は医師にキレることになるが、怒りをぶつけられても医師は毅然とした態度をとり続ける。
認知のゆがみを治す困難さがひしひしと伝わってくるシーンだ。
そもそも、ありのままの自分でいいのか?
この、ありのままの自分でいいのか、普通の人と違ってもいいのかという問題は、「ケーキを切れない非行少年たち2」でも取り上げられている。
”みんなと同じでなくてもいい”も支援者がよく使う言葉の一つですが、本人たちの心の底には“みんなと同じになりたい”という気持ちがあると私は思っています。
そういった彼らは、”できない自分に時間をかけて少しずつ折り合いをつけながら、事実を受け止めていく”過程を通して、本来の自分の在り方を見つけていくことになるのでしょう。
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社会を送っていくうえで、みんなとやっていくには、どうしても他者とのかかわりが必要になる。だから、他者と関われるように、自分をある程度は変えていく必要がある。
人間はだれか――社会、会社、家族、友人など――に認められないと、なかなか自分のことを認めてあげられない。精神的にキツイ状況に陥ってしまうのだ。
僕自身、「自分のありのままを受け入れてほしい、自分は正しいからまわりが合わせろよ」と思っていた時期がある。20代の前半までは自分こそが正義と思って人生を歩んでいた。
それは僕のかかえている発達障害の特性のひとつで、自他の境界性がつきにくいというものだったといまになっては分かるのだけど、本当に自分の外に他者はまったく存在せず、自分にとって正しいことは、他人にとっても正しいと思っていた。
そんな他者の存在しない人になると、もちろん理解してくれる人、認めてくれる人も出てくるわけはなく、友人の多くも自分から去っていくことになった。
そうなるとさらに自分の世界が強固になり、
「理解しないあいつらが悪いんだ」
と自分の外の世界すべてが憎くて憎くてたまらなくなったことをよく覚えている。
自分は被害者で、それ以外は加害者と思うようになり、認知がゆがみにゆがんで、どうしようもない状況に陥ることもしばしばあった。
ただ、この時は、「ありのままでいい」という言葉もなく、個人は社会に合わせるべきという考えが強かったのが幸いした。
人間関係で失敗するたびに、怒ってくれる先輩や友人なんかがいて、彼らのおかげで僕は徐々に考えを改めることができた。
まあ人に恵まれたのと、運がよかっただけではあるんだけど。
もちろん社会が個人を搾取することはあってはならない、差別もあってはならないし、もう「個人が社会に合わせるべき」という考えは古いものだとも思う。
でも、あの時の自分には「個人が社会に合わせる」という考えが必要だった。やんわりとした考え方だと、おそらく自分を変えることはできなかった。
自分の想定する他者の範囲って、せまい
「他者と関わっていくために、他者の視点を持ちましょう」、「他者の視点を持てない人には適切なケアが必要だ」で終えられれば、キレイに締められるのだけど、簡単な結論はつけにくい。
もちろん他者を意識して、自分を変えるというのは必要なのだが、「その他者ってどこまでの人のことを言っていますか」と、この本はつねに問いかけてくるのだ。
この本では、牧師自身、境界知能の子どもたち、患者に熱心に向き合う医者、精神を病んでる医者が描かれている。
かれらの様子は、牧師自身のおどろきとともに描かれていて、自分の知らない他者は存在する、勝手に世界を決めるなよ、と伝えているようにも感じられる。
また、最後の2ページでおどろきの結末がある。
それを見ると、「他者のことってなんなんだろうな、なにか分かることはあるのだろうか」と答えのない思考の念に絡みつかれることになる。
とにかく、考えさせられる本で、読んだ後、僕は寝付けなくなってしまった。
