4歳になる娘には、ADHDの傾向があることがわかった。

で、娘の診断を受けるときに気づいたことがある。
それは、保育園の先生や病院の先生たちが、めちゃくちゃ丁寧にことばを選んでいるということ。
保育園の先生は、娘の行動にちょっと困っている、癇癪をおこすということは言うものの、障害という言葉どころか、ADHD・ASD・DCDといった言葉を使わない。
病院の先生も同じだ。
娘の場合、知能の遅れがないことも影響していると思うのだけど、障害・ADHD・ASD・DCDといった言葉を使わなかった。
「なんだかまどろっこしいな」
僕がADHD当事者ということもあり、基本的なことは知っているので、遠回しな言い方をせずダイレクトな言い方をしてほしいと思った。
ただ、冷静になってみると、言葉に気をつけるのは仕方のないことなのかもしれない。
診断に来る人は心に余裕のある人だけではない
僕の場合、自分がADHDということもあり、娘にADHD傾向があることはなんとなくわかっていた。
娘は、テンションが高すぎるし、ぐにゃぐにゃしているし、時間感覚は薄いし、よく転ぶし物にもぶつかる。視る力も弱くて、靴の左右がよくわからない。
ご飯が用意されると、待てずにパッと手掴みでむさぼり喰らうこともある。
普段の行動が完全にADHDの僕と同じなのだ。
なので、病院にいく前に、ある程度の気持ちは持っていた。
「ADHDは仕方ないから、なにかトレーニングを受けて少しづつ苦手ができるようになればいいな」、それくらいの気持ちで病院に行くことにした。
ただ、発達障害についてあまり知らない、もしくは子どもの傾向が強くて育児に疲れ果ててる状態で病院に子どもの診断を受けに人は違うと思う。
僕みたいに軽い気持ちで病院には行かない。
「我が子がこれからの人生で苦労するんじゃないか」、「もし障害があったらどうしよう」と心配な状態で病院にくるはずだ。
そんな時に、専門用語をたくさん言われたり、障害ですと言われると、たぶん心が耐えきれない。
もちろん障害があることを重く受け止めすぎるのは、偏見だとは思う。
ただ、世の中は障害に厳しいし、そもそも僕たちは障害に厳しい環境で教育を受けて育ってきているし、障害があると人より大変なことは増える。
だから、家族が障害の当事者になったとき、障害を重く受け止める、もしくは悲観的に扱うことは仕方ない。
輪の中から排除されたような気持ちになることも人によってはある。
僕自身はADHDを障害で、自分のことを障害者と自覚した上で、脳機能の障害と人格は別と考えているけど、そう考えられない人がいても仕方ない。
あと、子どもの場合も、「障害」という言葉に潰される可能性はある。
こう考えると、障害って言葉、むずかしいなと思う。
みんなと違うってことを自覚させられる刃みたいな言葉だよなあ。改めて、考えてみよう。
「障害」という言葉について改めて考える
発達障害は、「障害」なのか「個性」なのかと話題になることは多い。
僕の考えとしては、必要な人に支援が行き渡るように発達障害は障害と社会制度的には扱ってほしい。
ただ、個人が個性と解釈するのは自由じゃないかなと思っている。
脳機能のはたらきが弱いことを「個性」と扱うのは無理があるような気はするけど、「障害」という言葉に違和感があってモヤモヤするよりは、「個性」と解釈して、少しでも前を進んで行った方がいい。
僕個人としては、脳機能のせいでうまく動けないし、社会でも見えない段差があって進む道が限定されるし、お金はかかるしで、発達障害は障害でしかないと思っているけど、個性という解釈がしっくりくる人は個性と解釈するのもいいと思っている。
誰もが、「障害」という言葉を受け入れられるわけではない。
例えば、僕が子どもに発達障害のことを告げるときがくるとして。
その時にならないと何というかは分からないけど、子どもの状況次第では「個性」という単語を使う可能性はある。
子どもにとって、「障害」という言葉が重すぎるからだ。
発達障害を気にしなくていい社会がくるといいな
個人的な望みをいうと、社会が進んでいって、発達障害について障害だ個性だと気にしなくてよくなるのがベストなんだろうなあと思う。
僕には、発達障害の他に、軽めの色盲がある。
黒板の赤文字が読めなかったり、ソメイヨシノがほぼ白に見える。
ただ、この色盲は、まちがいなく視機能の障害ではあるのだけど、普段の生活で障害になっていると感じないし、そもそも気にする場面がすくない。
もちろん僕がデザイナーなどの色を使う仕事についていない影響はあるのだけど、色んな場所でユニバーサルデザインが取り入れられたりして、不便なことはあまりない。
なので、発達障害についても、将来的に社会の段差が少なくなるといいなあと思う。
発達障害という言葉がもっと軽くなって、「自分に障害がある?ふーん、そういう人もいるよね。」となるとうれしい。
まあ、そのためにも、まずは発達障害の当事者である自分がやるべきことを頑張っていかないといけない。少しづつやっていきたいと思う。
